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留学体験記

満奈美

 

 

 2004年〜2005年、私は一年間大学3年を休学して私費留学をした。私の留学中の経緯を簡単にまとめると、こんな感じになる。

 

4月4日  シアトル到着。ホームステイ先へ。

4月5日  語学学校へ (2ヶ月間通う)

5月    ホームステイから語学学校近くのシェアハウスに移る。

6月    カレッジが始まるまでの2週間を友達の家に居候させてもらう。

6月半ば  カレッジで約6週間のサマークウォーター(夏学期)が始まる。

8月    夏休み (8/6〜9/26)

9月終わり 約11週間のフォールウォーター(秋学期)が始まる。

12月半ば  1週間ほど帰国の準備や友達を訪ねてオレゴン州に行ったりする。

1229日 日本に一時帰国

1月5日  オーストラリアのパースへ。7週間のボランティアに参加。

226日  日本の実家に戻る。

 

 

留学決断から出発まで

 この留学は、私にとって大切な経験であったと思っている。一年間、いろんなことを考えた。いろんな人に出会い、自分と向き合う機会もたくさんあった。今回はその詳細を書きとどめたいと思う。

 

 私が漠然と留学をしてみたいと思ったのは、高3の時である。きっかけは友達だった。私たちは、冬前くらいからよく放課後や休日に受験勉強のつもりで学校に残っては、大学に入ったときの話や将来の話ばかりしていた。その時友達と夢を語るついでに、「大学に入ったら留学しよう」と、言ったのが初めである。その時、私が言った大学に入ってすることは2つ、部活に入ることと、12年留学をすること。大学に入ってラクロス部に入り、2年目を迎えたとき、高校の友達と電話をしてそのことを思い出した。部活のことや就職のことを考えたら今しかない、とその時は思ったのである。それから、手探りで少しずつ調べ始めた。

 確かに、ある程度何をするにも遅いことはない。だから、その時しかない、というのは間違っているかもしれない。でも、いろんなことにおいてタイミングって大事だと思う。

 

 私の留学に、周りは賛否両論だった。反対の意見でもっとも多かったのは、交換留学でないこと。確かに、単位も取れて留年もしなくてもよく、金銭面での負担も少なく、何より留学するためにある程度勉強したという意思が見られる交換留学のほうが、周りを説得するにも、自分が留学中に目的を見失わないといった点においてもよいだろう。しかし、私には私費留学のほうがあっているだろうと考えた。理由としては、まず、部活の関係で4月出発しか考えていなかったが、4月出発の交換留学には間に合うかわからないようなぎりぎりの時期であった。また、帰って来たときに部活に戻れたとしても、他の人よりもブランクがある上に1年短く、どうしても中途半端に終わってしまいそうであった。他にも、就職活動のことを考える時間が持てないと思ったことや、留学中にも移行できる単位を気にせず、興味のある授業を取れるといったことなどといったことから、私費留学という形を選んだ。

 

 そうと決まったら、場所や学校、スケジュールや費用をネットや留学エージェントなどに足を運び、調べていった。まずは国である。私は過去に、カナダとアメリカに2週間ほどホームステイをしたことがある。高校の時に友達と一緒に行ったので、海外に行っただけという感じで少しもったいなかったと思うが、それがあったから今回の留学に、それほど不安がなく踏み切れたことを考えたら、よかったと思える。アメリカにはあまりいい思い出がなく、カナダやイギリスに魅かれたが、今回はできればビジネスを学ぼうと思っていたので、やはり日本とビジネスの面で交流が多く、比較的簡単に大学にも行けるアメリカを選ぶことにした。英語のアクセントにしても、アメリカ英語を聞く機会が非常に多いと思ったのもあった。都市を決めるときには、ラクロスが盛んな東海岸に興味があったのだが、治安の良し悪し、公共機関の便利性、英語のアクセントの強さ、気候などから、シアトルに決めた。日本人も多いと聞いていたが、逆に日系のオフィスも多いし、ビジネスを学ぶのに定評がある短期大学があると聞いたので、それもプラスとしてとった。費用はできれば抑えたかったので、エージェントを通すのはやめた。代行を頼むと、ちょっとしたサポートは付くが、書類などの手続きで30万とかかかるところもあるくらいだ。といっても、私もアメリカの大学のシステムを調べはしたが、実際どれだけ入りやすいのか、なかなか想像がつかなかった。だから、大学の手続きを自分で行うのは、その地に行ってからいくつか学校を見学して行えるように、初めは語学学校で慣れることにした。語学学校は、アメリカのVISAがテロ以降取りにくくなっていたことから、あまり時間がなかったので出発が遅れたりしないよう、日本にも英会話教室があってVISAが必ず発行してもらえるところに2ヶ月頼むことにした。

 

 私は、精神的にも金銭的にも親に助けてもらった。両親は留学や海外のことは何もわからなかったし、周りに留学のことを詳しく相談できる知人も少ないほうだったと思う。だけど、安全面にさえ気をつけて、自分で準備を進められるなら、留学してみたいという意思を応援してくれた。だから、シアトルが比較的安全であることや、初めの2ヶ月間は学校と滞在先を先に決めていくこと、短期大学を2校挙げてどういうことができるのかなど、自分の中でも不安がないようにし、親にも説明ができるようにしっかり準備しなければと思っていた。

 

 

留学先での一日

  • 語学学校 8:30〜     授業開始 

      12:3013:30  LUNCH TIME

      15:35      授業終了

          ダウンタウンをぶらぶらしてから帰る

      18:00      夕食

      19:00      ホストファミリーと過ごす

      23:00      就寝        

   金曜の午後はたいていアクティビティー。

   土日は隣町などへおでかけ。

   シアトルのバスは結構安くて乗り換えが一定の時間内ならいくらでもでき        

   るので、適当にバスに乗り継いで出かけるのも楽しい。

 

  • コミュニティーカレッジ(夏)

                             6:00        起床

        7:308:30   体育

       9:3011:20     コンピューターのクラス

       11:3013:20   コミュニケーションのクラス

               昼食

            コンピューターラボで宿題

       6:00〜     夕食

       7:00〜     片付け、テレビ、宿題

       11:30       就寝

 

   (秋)8:309:20    ビジネスコミュニケーションのクラス

       11:3012:30     体育

      1:302:20    マーケティングのクラス

 

 

 

シアトルのホームステイ

 関空からカナダのバンクーバーを経由してシアトルに到着。語学学校の人に迎えに来てもらい、ホームステイ先に行った。迎えてくれたのは、妊娠中のテリサ、夫のマーク、3歳の女の子テイラーの一家だ。テイラーはとてもシャイで、初日は全く話さないどころか泣いていた。でも、いつの間にか私の名前を呼んでくれるようになり、学校の宿題で遊べないときはいじけて泣いてしまうほどになった。ここにステイしたのは1ヶ月だけだったが、ハイキングやイースター、誕生日会も一緒にしたし、そのあとも何回か遊びに行った。私はテイラーの誕生日や秋頃に産まれた赤ちゃんに、日本でも有名な「ぐりとぐら」の絵本シリーズの英語版を何回かプレゼントした。絵本やディズニーのものが大好きなテイラーに、できるだけ日本の物を知ってほしくて選んだこの本を、テイラーは私に何度も繰り返し読んでほしいと言ってくれた。テイラーは私の不確かな発音を時々直しながら、それでもじっと聞いてくれて、自分が小さい頃に読んでいた本を気に入ってくれたことがとてもうれしかった。

 

 

シアトルの語学学校

 シアトルに到着した次の日から、バスに乗り継ぎ45分ほどのところにある語学学校に通った。初日は語学力テスト。私の結果は・・・非常に悪かったようだ。振り分けられたクラスは非常に簡単だった。だんだん難しくなるだろうと思って何も言わなかったのだが、そのまま1ヶ月が過ぎてしまった。2ヶ月目に入るとき、このまま来月からカレッジに移ることを不安に思い、クラスの変更を申し出たができなかった。慣れてきた頃なのに、中学校のような授業とゆっくり話をする先生で、2ヶ月目はただ次の学校や新しいホームステイ探しをしたといった感じになってしまった。語学の勉強のことを考えると、早くにTOEFLの点数を持っていることを伝え、クラスの変更を頼んでみればよかったと思ったのと、来る前に少し勉強しておくべきだったと思った。

 午前の授業はクラス別だったが、午後の授業は選択授業だった。アジア人だらけだった語学学校で私がもっとも好きだった時間は、アメリカンカルチャーのクラス。アメリカ人の先生と台湾、韓国、日本、主にこの4つの国のカルチャーの違いについて話す。ここで感じたことはアジアは近くて遠いということ。毎日いろんなことを、自分の国はどうだこうだとたくさん話した。ここでの意見交換は毎日の楽しみの一つだった。近い国同士だからお互い興味があるし、なんだかんだ言っても理解しやすい。それに、私がここで会ったアジア人は、他のアジアの国の意見を尊重しあっていて、仲がよかった。

 先にも書いた通り、語学学校の生徒のほとんど、95%くらいが韓国人、台湾人、日本人だった。アメリカの西海岸だし、こういったケースは多いと思う。確かに語学力的にはあまりためにならなかったかもしれないが、アジアの国の友達と過ごした時間は大切だと思う。カレッジに移ってからアメリカ人やヨーロッパの人と話すことが多くなると、アジアは外国だけど、やっぱりどこか近いと感じた。

 

 

 

 

Seattle City

 シアトルの人々..... ここの人は親切だと思う。目が合えば挨拶、少し時間があればおしゃべり、道を聞けば連れて行ってくれる人。常識範囲で行動に気をつけていれば安全だし、人はとても温かい。交通もバスが結構発達していて安い。が、時々時間は不確か。でもそのせいか、マリナーズの試合のために渋滞で一時間遅れでも、誰も特にイライラした様子はなし。車椅子の人をバスでよく見かけるのは、バリアフリーが発達している証拠だろう。そして、こっちの人はよく本を読む。バスの中でもこっちの人たちは酔わないのだろうか。だから、アメリカにはほとんどの街の中心あたりに図書館があるらしい。それに、みんなよく運動する。自転車で通勤する人もよく見かけるし、みんな本格的なヘルメットをつけてウォーターボトルにスパッツで自転車通勤の人や、ダウンタウンの真ん中を短パンとランニングで走っている人には、少々驚いた。

 

 シアトルの人々の生活..... 「ニューヨークとかは違うよ」と、ホストファミリーは言ってたけど、この街のお父さんは6時に家に帰ってくる。夫か妻どちらかがごはんを作って、どちらかが片付けをして、夕食後は家族の時間。日の長い夏は公園に行ったりガーデニングをするなど、家族の時間を大切にしている。この考え方はビジネスにも影響していて・・・ということも授業でやった。アメリカでは、至るところで時間にルーズなわりに、ビジネスの場ではタイムスケジュールをしっかり守るということが重要で、その理由の一つが「時間通りに家に帰る」ということらしい。平日の夕方に海辺をランニングする家族やお散歩する老夫婦、公園ではしゃいでいる親子を見ると、「平日なのに」と思うが、この地域ならではのとても素敵な光景である。

 そしてみんな愛国心が強い。野球を見に行っても毎回胸に手を当てて国家を歌うし、ミュージカルを見に行っても途中でオールスタンディングで歌いだす。

あとは、ライブなどに行ってもおもしろい。ちょっとクレイジーな人がいるからそれに混じってかなりはしゃげてしまえる。何を見に行っても、とりあえず叫んでおけばなかなかなじんだ気分になって、自己満足なんだけどとても楽しい。きっと発音とかですぐ英語できないってわかってしまうのだろうけど(笑)

 

  

 

 

コミュニティーカレッジ(短期大学) 〜

 アメリカには私立と州立の4年制の大学の他に、コミュニティーカレッジという州立の2年制の大学がある。移民が多いアメリカらしいもので、誰でも受け入れてくれるし、留学生も学費は国民の何倍になるが、英語力が一定を満たせば自由に授業を取ることができる。そして、何年かかって卒業してもいいので、私のように2クウォーターしか取らずに帰国してしまっても問題ない。英語力を満たさない場合でも、ESLコースという英語を学ぶコースを兼ね備えている学校も多い。私が初めに行ったときは夏のクウォーターで、多くのネイティブの人たちは普通夏休みと取る。夏のクウォーターは他の3クウォーターと違って期間は約半分、授業時間は倍の2時間だった。

 私はまず、英語の授業とコンピューターのクラスとジムに毎日通うという体育のクラスを取ることに決めた。が、最初の授業で、私は2ヶ月間アメリカにいた意味のがあったのかと打ちのめされた。語学学校では、2ヶ月目は授業がわからないと思うことはなかったのに、カレッジに移ったら先生の話すスピードはもちろん、生徒の言っていることなんてほとんど聞き取れなかった。私が聞いていたのはほとんどがネイティブじゃない英語か、生活の中で必要な日常会話の一部だったのだ。コンピューターは留学生も多く、先生も慣れていたし、先生のやっていることを真似すればどうにかなったが、英語は、現国にあたるもので、話も理解しにくい上に、宿題が毎日70ページの本読みでテストがあった。不可能・・・ということで2週間目からは特別に、異文化コミュニケーションのスピーキングのクラスを取らせてもらうことにした。

 コミュニケーションのクラスにはアメリカ人や、インドやカンボジアからの移民(ほとんどネイティブみたい)、それから日本と韓国からの短期留学生がいた。授業は、なんでも言葉に表しがちな欧米諸国と、言葉よりも背景などを大切にするアジア諸国などのことを主に勉強した。この中で、私たちは日本人と韓国人の留学生とで歴史について話す機会があったのだが、私は初めて、歴史上の理由から日本人をあまり好まない韓国人に出会った。歴史の話になると、こちらの話は全く聞かない感じで驚いたが、私の日本人の友達がカナダに留学したときは、日本人とは一言も口を聞かないという韓国人が何人もいたそうだ。その頃、日本では韓国ブームがヒートアップしていたようで、私も韓国好きの友達から韓国旅行のメールをもらった。そこには、街で日本人旅行客にアイドルに話しかけるかのように声をかけてきて、韓国人はとてもフレンドリーだというような内容であったが、このようにヨン様ブームでどんどん韓国に押しかける日本人の中には、歴史に敏感な韓国人がまだ多数いることを知らないで行く人たちがいるのかと思うと、他国に行くときには相手のことを多少知ることは大切なのではないかと思った。授業では3回グループプレゼンテーションがあった。最後のプレゼンテーションは、異文化が混ざった映画についての発表で、私たちのグループは "Last Samurai" のワンシーンを取り上げて、無言の解釈の違いについて発表した。この議論はグループ内でとても盛り上がって、たったワンシーンを取り上げてもこんなにアメリカ人と日本人では感じ方が違うのかということがよくわかった。無言を否定的な意味でよく使う私たちだが、アメリカ人の友達は、無言はYesと解釈することが多いと言っていた。その人はamazonの会社で働いて、展開が速いネット社会では、上司から返事が来ない場合、やってみて失敗したら謝る、というようにするらしい。それの影響なのではないかという結論で、そのプレゼンテーションは終わった。

 

 ビジネスの授業に定評があり、学校の質も高いほうとされているこのカレッジには、たくさんの日本人がいる。いくつかの日本の私立大学とも提携を結んでいるのもこともあるが、それよりもインターンシップもついた1年留学プログラムがあり、そのクラス50人くらい全員が日本人だった。私もたくさんの日本人留学生と友達になった。日本人は日本人同士でかたまる癖があり、語学が伸びないというが、私は彼らに会えたことをよかったと思っている。私は1年のプログラムに参加したわけではなかったので、向こうの大学を卒業しようとしている日本人留学生の友達が多く、特に、大学を卒業してからアメリカの大学に来た子とよく話をした。来たばかりの子が多かったので語学的にはそうでもなかったが、いろんな刺激があり、彼らが海外にどういう思いで出てきたのかとか、将来どうしたいかなどを話すのはとても興味深かった。クラスには高校を出てから来て23年くらい経つ子もいたが、そういう子たちは英語はもうかなり話せるのだが、日本人とは英語で話そうとする子は少なかった。韓国人の留学生もそう言うのだが、意思を簡単・明確に伝えられる言語があるのにわざわざ英語で話そうとするのは不自然だというのである。私は初めは英語を話してくれればいいのにと思ったが、今はなんとなくその気持ちがわかる。英語が下手な来たばかりの人と話すのは結構神経を使うし、私たちのように1年という期間が決められているわけでもなければ目的が語学じゃないのに、そういうところで神経を使いたくないというのが本音なのではないだろうか。だから、私は自分が興味のある話を英語で話し、それに共感してくれる子と友達になっていった。

 この1年で、私が強くなったと感じたのはこういうところだと思う。期間が決められていて、友達になれる人の数もそう多くない。アメリカという国柄、自分を出していくほうが認めてもらえる。自分の意見にあいまいになった時には、日本人の友達にさえ私が思っていることはなんなのかということを厳しく指摘された。そのかわり、何を言っても尊重してくれる友達が、私はとっても居心地がよかった。 

 

Summer Vacation! 

Canadian Trip

 夏休み、私は何かしようと思った。アメリカ旅行もよいが、旅行者のうちで交わされる会話というのは挨拶など決まったものから始まるので、できれば違う国の人と生活をともにするもののほうがよいのではないかと考えた。そこで見つけたのが、世界中からの参加者とカナディアンロッキーを、15人弱が乗れるくらいのワゴンでキャンプをして周る旅。参加するにあたっての手続きは、旅行代理店があまりにも適当で大変だった。そのツアーのことは主催者が違うからわからないとかで何も情報はくれないし、不親切だし追加料金などの説明もしてくれないし、説明を求めて理解に苦しんでいるとため息をつくし、やめようかと思ったりもした。が、そういうことで挫けていては、短期間しか海外にいられないのに何もできなくなってしまう。気候のことなどは違う旅行店に行ったりして旅を探しているふうに聞いてみたり、とにかく何かをするのに手間も時間もかかってしまうのだけど、海外では何かをすると少しずつ成長しているような気分になれるのは悪くない。この時すでに、アメリカに来てから3ヶ月が経過していた。

 

 出発日当日集合場所に行くと、周りは二人組みで来ている人が多く、ヨーロッパ出身の人ばかりであった。なんとか話しかけたりしてみたが、ここで困ったことが発生した。フランス人の学生のカップルとドイツ人の友達と来ている人以外はみんなネイティブで、イギリス英語かオーストラリア英語をしゃべるのだ。3ヶ月でやっとアメリカ英語に慣れてきて、少しは英語がわかるようになったかと思っていたのに、みんなのしゃべっていることが全くわからなかった。発音も違うからわかりにくいのだが、使う単語も違うので何を言ってるのか想像もつかないのだ。救われたのはリーダーがアメリカ人だったこと。だから、リーダーの言っていることはわかるので行動は何とかできた。しかし、会話に入ることは全くできなかった。

 車内では、音楽がかかっていて景色を楽しむだけのことが多く、座っているだけなのだがそのほうが気は楽だった。観光スポットや夜の自由時間のほうが、せっかくなので一人ではいないほうがいいと思ったり、みんなの会話がわからないのに座っているだけで辛かったりで、初めの3日間はみんなが楽しそうに話しているほど正直辛かった。初日の夜テントのペアを決めるときは、2人組みで来ている人が多いから不安だったし、ペアになったのはアクティブでキャンプには慣れていたが、全く話したことのないイーリンというスコットランド出身の子だった。あまり状況が変わらないまま3日目のを迎え、キャンプ場で公衆電話を見つけた時は、「元気だよ」とか、「すごくきれいだよ」って日本に電話した。メンバーのことを聞かれても、「アクセントが違うからちょっと大変かな」なんて言いながら、「来てよかったよ」って付け加えていた(笑)。母親は少し辛いのに気づいていたかもしれないが、「きっと慣れるよ」と言ってくれた。

 少し状況が変わったのは5日目あたりだ。国立公園で自由にハイキングをしたとき、熊がいるから必ず二人以上で行動しなければならなかった。たくさん歩きたいというところで気があったイーリンと歩いたのだが、その時から私たちはたくさん話すようになった。イーリンは私が理解できていないことがあると知ると、アクセントの強い言葉やスラングがみんなの会話の中に出てくるたびに確認したり、教えたりしてくれた。それからは、本当におもしろい旅だった。そして、カナダの国立公園は本当に美しかった。たくさんの湖を見たが、一つ一つ違ったあの不思議な青や緑を何色というのだろう。

 しかし、天候は悪くなっていった。旅の終盤は8月末で、カナダの山の夜は凍えるような寒さ。一体何枚のジャンバーや靴下を履いたかわからないが、それでも雨の夜なんかは凍死する思いで、明け方には寝ることができなかった。

 この旅では確かに辛いこともたくさんあったが、あのきれいな山と湖と、ネイティブと一緒にキャンプするという経験ができてよかったと思う。そして、この経験が私の留学終盤に大きく影響することとなる。

      

 

Volunteer

 カナダのキャンプから帰ってくると、ボランティアを探した。私がやったのは、YMCAの保育教室でのお手伝いと、通っていたカレッジの3日間の秋祭りのお手伝いだ。アメリカでは夏休みのボランティアが結構簡単に見つかる。向こうの高校生は、ボランティア(アルバイトでもいいのかな?)をするというのが学校の宿題になっており、そういった経験が大学に入るときに面接で必要だからである。YMCAのボランティアではネイティブの高校生などと話す機会があるかと思っていたのだが、私の行った時期は少し遅かったらしく、ボランティアは私一人だった。少し心細く保育園に入った私の緊張を解いてくれたのは、3歳の男の子の「Hi, I'm Dick. What's your name?」の一言だった。いきなり入ってきた見知らぬ日本人にそうやって話しかけてきてくれるなんて、さすが多民族国家で育った子供だと思った。確かにそのYMCAにはアジア人の子も何人かいたが、彼らには外国人ではなく、同じ人間として私が映っていたのではないだろうか。自分の名前を聞いてくれることがこんなにうれしいんだと思った私は、積極的に子供に挨拶しては名前を聞き、手に書くなどしてできるだけ名前を呼ぶように心がけた。子供たちは、私が自信なさそうに話すとなかなかわかってくれないが、頑張って話せば少々発音がおかしくても一生懸命理解しようとしてくれた。喧嘩をされたりしたときはどうやって叱ったらいいのか困ったけれど、一緒に歌を歌ったり、外で遊んだりしたのは楽しかった。YMCAでは、毎日何かテーマを決めては自分のことをみんなの輪の中で発表したり、教室のルールを自分たちで決めたり、保育園児ってこんなことまでしていたっけって思うことが多々あった。教育の違いなのだろうか。

 

 

コミュニティーカレッジ 〜

 カレッジで二学期目を迎えた。私はビジネスコミュニケーションとバトミントン、カスタマーサービスというマーケティングのクラスをとった。ビジネスコミュニケーションではビジネスレターやメールの書き方に、ビジネス上でのエピソードと5人くらいいた留学生の話を交えて行われた。マーケティングでは、カスタマーサービスを行う上で何が大切なのかということを習った。クラスには、高校を出たアメリカ人の子たちや留学生も多かったが、育児を終えたり定年を迎えた後に第二の人生のための勉強をしに来る大人まで、年齢は様々だった。いくつになっても思い立ったときにチャレンジができる環境があって、それを実行しているクラスメイトを、私はとても素敵だと思った。内容は自分の体験談をケーススタディーとしてレポートを書いたり、実際にサービス業のところに行ってインタビューをしたり、グループや個人でプレゼンテーションをした。身近な例が多かったために理解できないほど難しくなかったので、どうにかクラスに参加した感が味わいたく、チャンスがあれば自分の意見を言えないかということを考えるようになった。例えば、多民族国家ならではのケースだと思うが、ネイティブではないお客様とのトラブルシーンなどが出てくると、ネイティブじゃない自分の実体験を意見として言うチャンスだと思い小さく手を上げてみる。当てられると皆の視線で顔が赤くなるのを感じながら、片言の英語で一生懸命伝える。外国人の英語に慣れていないアメリカ人のクラスメイトには伝わっていないかもしれないが、先生がうなずいてくれればよしとする。そして、その日は友達に「発表した〜!」というメールを送ったりしたことが、懐かしい(笑)。

 放課後にはほとんどの時間をコンピュータールームで過ごした。休日でさえコンピュータールームに来てはレポートを書いたりしていたが、そこに行けば必ず友達に会えたので意外と楽しみながら通った。この学期が始まってから、私には学校のこととは別にすることがあった。今後の予定を決めなければ。冬このままシアトルのカレッジに残るのか、別の場所に行くのか。留学前に考えていたのは、グアテマラという南米の国に行ってみるか、もう1学期間カレッジに残るかである。しかし、何かがしっくりこなかった。カレッジで学べることはたくさんあったし、南米に行くことはめったにできないことだろう。確かに南米には行ってみたかったが、南米に行くなら挑戦しようと思っていたスペイン語にそのときはあまり魅力を感じていなかった。他にもインターンシップというのも考えたが、私には気にかかっていたことがあった。それは夏に行ったカナダ旅行である。あの時私は、「世界共通語とされている英語を勉強しに来たのに、私がわかる英語はカナダ人とアメリカ人が話す一部の英語のみ。ヨーロッパやオーストラリアなどの英語圏に行ってでさえわからないんだと思うとむなしい」と感じた。そして、2週間ずっと同じ人たちと過ごした後は、語学力が上がったようにも思ったのだ。これらのことからから私が思いついたものは、イギリス人が多く参加するような、住み込みのボランティアだった。

 それから、私はイギリスのHPで住み込みのボランティアを探した。その時期はイギリスも冬なのでイギリスにはそんなにいいものがなかったが、イギリスなど数カ国でよく広告されているオーストラリアでのボランティアを見つけた。私が参加したのは海外からの参加者が集まるCVAというボランティア団体で、いくつかの都市に支店があった。いろいろ考えた結果、私はパースという街を選んだ。早速メールで、自分が今シアトルに短期で滞在している日本人であることや年始から参加できるかなどの質問を簡単に送り、私は一時帰国したのち、7週間のパースでのボランティア参加を決めた。

 

 秋、学校にももう慣れた頃、アメリカではハローウィーンや感謝祭、その後にはクリスマスとイベントが盛りだくさんだった。毎日学校といった感じだった私たちは、学校の寮で住んでいるわけでもなかったのでパーティーやダンスクラブといったアメリカンライフを堪能することはなかったが、ハローウィーンには数人の留学生で仮装して"Trick od Treat"をして歩いたりした。本当は小学生や中学生までなのだが、外国人の経験として大目に見てもらい、私たちはおやつをいっぱいもらった。感謝祭には、クラスの教授の家に友達とおじゃまさせてもらい、大きな家族感謝祭を味わうことができた。クリスマスには友達とパーティーをし、私は一通りのアメリカの大イベントを楽しんだ。

  

一時帰国トラブル

 カレッジ終了後10日間くらい、帰国の準備や友達と遊んだりして、いよいよ帰国の日となった。空港には友達が見送りに来てくれ、またの再会を約束してお別れ… までは感動的だった。ここからがなんとトラブルの連続だったのだ。放送で呼び出されたかと思えば、飛行機の故障でフライト中止、次の飛行機に乗るとカナダから大阪への乗り継ぎが間に合わず、2日間カナダで滞在しなければならない。せっかく久々に、しかも年末に1週間ちょっとの帰国なのに2日遅れるのは嫌だったので他の手段を尋ねると、12時間空港待機の後シカゴへ飛び(真逆!)、深夜に着いたあと7時間待機、15時間のフライトを経て関空に着くと1日遅れで帰国できるとのこと。年末だったし、オーストラリアへの出発があったので1日でも早く帰国したかったのもあって、私はシカゴの過酷な方を選んだ。時差の関係上私はホテルで寝たりすることもできず、2日間近くを空港か機内で過ごした。キャッシュをあまり残さないようにしていたので財布の中にお金はなく、仕方なくマクドナルドでさえクレジットカードで買う始末。こんな目に会ったうえにまだなぜか嫌な予感がしたので、シカゴでは荷物の受け渡しについて3人もの空港の人に自分の荷物について確認をした。が、予感は的中。すごく疲れて関空に着いた私の荷物は、何かのミスでシカゴに残ってしまったのだ。荷物は結局1日遅れで我が家に届いた。とりあえず帰国でき、年末年始は実家でゆっくり過ごした。

                              

 

ボランティア in オーストラリア

 つかの間の帰国の後、私はオーストラリアに飛んだ。ブリスベンで乗り換えてパースへ・・・ のはずが、なんと乗り継ぎが間に合わなかった。特にフライトが遅れたわけではないはずなのに、旅行会社が用意したチケットでそんなことがあるのだろうか。時差の計算のミスでもしたのだろうか。なんとか頼んでみた結果、シドニー経由でパースに行くと数時間遅れで行けるとのこと。普通なら少しパニックになるところだが、前回のトラブルがあったからか数時間の違いなんてたいしたことはないと思った。

 次の日、ボランティアのメンバーと合流。普通の一軒家をボランティアのメンバーでシェアして住むのだ。一緒に住むメンバーは基本的に12人くらいで、毎週金曜日に帰ってしまう人と新しく参加する人で入れ替わる。私は7週間いたが、その間にイギリス人20人、アメリカ人2人、ドイツ人1人、韓国人5人、香港人2人、日本人2人と一緒にボランティアハウスにいたことになる。仕事をするときは4人のオーストラリア人のリーダーが交互に連れて行ってくれ、地元の人とも一緒に働く機会もあった。こう思うとたくさんの人たちと生活したなと思う。

 ボランティアは2グループに分かれて、月曜から金曜まで、拘束時間は6・7時間だが、実際作業をしているのは3時間程度。移動したりお茶している時間がかなり長い。仕事がどれだけ終わったかよりも、ティータイムを取るほうが大事な様子。このボランティアは身近な環境保全が主で、仕事は季節や都市によっていろいろだが、あの時期のパースはネイティブの木の種の採取や雑草抜き、ネイティブ以外の低木の伐採が多かった。野生のカンガルーを見れたり、きれいな景色のところでの作業などの週はよかったが、地味な仕事が多かったので、変化の少ない仕事に退屈な週も結構あった。

 私が行った時期にイギリス人を中心に参加者が多かったのは、私の目的からすると当たりだった。同じ時期の東海岸の都市のボランティアでは韓国人がほとんどだったと聞いたし、時期がずれているとメンバーが34人の時もあるそうだ。今回の参加者は18歳から60歳くらいまでの男女と幅広かったが、半分くらいがイギリス人の1819歳だったのは、イギリスでは高校卒業と同時に1offをとってボランティアをしたり旅行をしたりすることが多いからだそうだ。彼らは10週間くらい同じところのCVAに滞在する。私が初めに行ったときに7人くらいいたイギリス人の子達はグループ化していて、休日にメンバー全員で一日旅行をしたりはしたが、すごく話した感じはなかった。彼らは海外に出てきて外国人とふれあうという感覚よりも、冬に気候のいいオーストラリアに来たという感覚が強かったのだと思う。それは覚悟の上だったのであまり気にしていなかったのだが、最後の2週間にきた子達は少し違った。お互い干渉はしないが、夕食を話をしながら食べ、テレビを見るときも一緒に見、出かけるときは声を掛け合った。こういったメンバーに会った私は、恵まれたボランティアに参加できたと思う。

 仕事は確かにつまらないことが多く、「今日何した?」「Weedinng(雑草抜き)」といってしかめっ面するのが、仕事から帰ってきたときの定番の挨拶だった。でもなんとなく、どうしてこういう仕事をしているのか意味を見出したくなった。それで仕事中に時々質問をしてみると、私たちが集めている種はオーストラリアにしか生殖しない木であることや、抜いたり伐採しているのは他の大陸からきてネイティブの木々の繁殖を邪魔しているものであること、ネイティブ以外の木がオーストラリアの鳥や動物のえさを奪っていることなどを知って、自分のしている仕事に意味がある気がして少しずつ苦痛じゃなくなったし、話題も増えて話をするようにもなった。そういえば、伐採して切り口に毒を塗るという作業があったのだが、その低木の名前が"Japanese Pepper"という名前だった。私は初めにリーダーがその土地の管理者と話をしているときに、これを"Japanese People"と聞き間違えてしまった。そして彼が"Kill them"と言っているのを聞いたときにはどうしようかと思い、リーダーの顔を見れなくなった。その後こっそりメンバーに聞いて勘違いだとわかり、大笑いだったのだが。

 オーストラリアの海はとてもきれいだった。気候や環境が異なる南半球で、ネイティブのものを守るためにボランティアが盛んなのは素敵だと思った。オーストラリアは独特の雰囲気を持っていると思う。私が行ったのはパースだけだけれど、現地の人々の時間はゆっくり過ぎているように感じる。ボートを片手に海に来るおじいさんとかを見て素敵だなと思ったけど、「こののんびりした街では、趣味がないと退屈なんだよ」と言われると、老後には素敵だけど、若いときからずっとというのはなんだか複雑だと思った。

 イギリス人の参加者には、おばさんで銀行のマネジャーだが、半年休みをとってオーストラリアに来ている人もいた。帰っても同じ職場に戻れるらしい。6・70歳くらいのおばさんも、半年間仕事を休んでオーストラリアを旅行したりしているそうだ。転職の間にオーストラリアに来たおじさんもいた。アメリカでも感じたが、したいことをしたいときにするといった感じだ。私は実際の数字は知らないが、就職は大変じゃないかと聞くと、彼らは大変じゃないと言っていた。イギリス人の若い子たちも結構気楽な感じなのに、香港人と韓国人はどちらかというと日本人と似ているかんじで、就職やテストが大変だと言う人が圧倒的に多かった。表現の違いもあるのかもしれないが、実際にそれほど違いがあるのだろうか。

 ボランティア中に、イギリス人やオーストラリアの地元の人に国や経済のことを軽く聞いたけど、みんなあまり問題がないように言っていた。楽観的なのか本当にそうなのかわからないが、他国の動きや自分の国の民族間の問題に、そう敏感ではないような感じがした。全く逆の反応をしたのが韓国人である。私はここでも、韓国人の友達と歴史や政治の話をした。幸せとか平和ってどういうものなんだろうって、やっぱり感じさせられる。考えてもよくわからないことだらけなんだけれど。

 オーストラリアにも来てやっぱりよかったと、語学のことを考えても思う。例えば、私はアメリカにいる時、あるサイトで「アメリカ人は"Pardon?"とは聞きません。」というのを読んだ。私たちは中学校の教科書で、もう一度言ってほしい時とかに"Pardon?"とか"Pardon me?"と習う。しかし、私がアメリカにいる時には1度も聞かなかった。代わりに"Sorry?"とかが多く、友達とかには"What's that"と聞く人もいた。多分そういっていたはず。だから、日本人の子が"Pardon?"って聞いていると、海外に来たばかりだということがある程度予想できた。しかし、オーストラリアに来てみると、意外とイギリス人が"Pardon?"と言っているのに気づいた。アメリカ人が使わない英語でイギリス人が使うものや、イギリス人もアメリカ人も使わないがオーストラリア人が使うものもある。ネイティブがどんな英語を話すかを知るのは楽しいし大切なことだけれど、私たちから見たら同じネイティブが英語という同じ言葉を話していても違うことがあるんだから、どういった英語が正しいとかネイティブっぽいっていうのはそう簡単に言ってはいけないような気がした。アメリカ英語が主流のようになっていて、そして、アメリカで聞いた英語がいいように思っていた私は少し反省したし、また少しだけれど視野を広げられた気がしてうれしかった。

 言葉のことをいえば、シアトルの頃に話は戻るが、私は一時自分の語学力が伸びないことで落ち込んでいたとき、ある友達に「どんなに長くいてもネイティブのように話せるにはかなりかかるのに、一年では何もできない」と弱音を吐いた。日本人でさえ母国語の日本語でも方言を話そうとすると不自然なのに、他の言語でネイティブのように話すのにはどれくらいかかるんだろうと思ったのである。でも友達は、言語を方言やアクセントまで細かく分けようと思うといくらでも分けられるもので、私たちが話しているのはネイティブの英語ではないと言った。Japanese English1つの言語で、言葉は思いとか意思を伝えるものであると。なんだか言っていることはあいまいかもしれないが、私が彼女が言いたいことがよくわかったし、私に自信とか何か強いものをくれた。彼女は私も彼女自身も自分なりに頑張っていることを知っていたし、私が生活を楽しめるように、「頑張れているよ」ということを何気なく伝えてくれていたんだと思う。この留学では、時々このように自分らしくいられることの大切さを感じた。

  

 

 

留学から帰ってきて・・・

 私は、留学を決めたり留学中にボランティアをしたりした時、友人に行動派だと言われた。しかし、決断までにかなり悩んだし時間がかかったほうだと思う。決断をするときにもどういったメリットがあるかとか、どうするのが今の私にとって一番よいと思われるかといったことを考えてしまう。近くにいる友達は私のあまりにも悩む姿見を見て、先のことまで考えすぎだと、いつも言っていた。それが私の悪い面でもあるし、今はいい面でもあると思っている。留学する前や留学当初は、まさに「隣の芝は青く見える」という感じだった。しかし、留学中には自分のことを自分で、相手に認めてもらえるように表現しなければならなかった。今は短所と思っている部分を長所として、また短所は短所で次に自分が成長できる部分として見られるようになってきたように思う。自分のことを認めるのは容易ではない。欠陥があるから成長できるし、人とも違うのだ。そう思おうとはしていたが、実際にそれを行動に移せたのは今回の留学中からだと思う。

それから、日本が好きなのだということも改めて感じた。自分らしさを持って表現できる人であると同時に、相手を尊重したり協調性を持つ日本の文化を大切にしたいと思った。


そして、何よりも強く感じたことは、いつまでも成長し続けられる自分でいたいということ。こんな貴重な経験をさせてもらえたことに心からの感謝の気持ちを込めて、私の留学体験記を終わらせたいと思う。